水野和プロフィール

水野和のご紹介

水野和の代表プロフィール

長野市生まれ
明星大学 心理教育学科卒業
1997年
厚生省認定 健康運動指導士取得
産業カウンセラー取得
アロマテラピー1級取得
カウンセリング勉強
2001年
厚生省外郭団体職員からセラピストに転職
2002~2004年
プラーナ療法士取得
4つのレイキのマスター&ティーチャー取得
(ウスイ、カルナ、セイキム、スピリット)
クオンタムタッチヒーラーベーシック終了
頭蓋仙骨療法
ラージャヨーガセラピスト取得
2007年
アーユルヴェーダ中級終了
ヴェーダンタ勉強開始~
フラワーエッセンス
ホメオパシー
Oリング
キネシオロジー
中医学
エナジェティックメディスン取得
2016年~
コアトランス・フォーメーションセラピスト取得
ホールネス・プロセスセラピスト取得
アクセス・バーズセラピスト取得
NLPプラクティショナー取得
NLPマスター取得
LABマスター修了
LABトレトレ前半修了
マネークリニック修了
DSRアドバンス修了
ヒプノセラピーベーシック修了
SS健康法取得
陰陽五行
算命学
マヤ暦
アドラー心理学カウンセリング
NLPコーチング取得
NLP上級コーチング修了
トランスフォーメーショナルコーチ®︎取得
ホールネスクリニックベーシック
2019年~
トランフフォーメショナル®コーチ取得
病気を言葉でやめさせるセミナー
インテグレーションコーチング
ヒプノセラピー
クリエイティブイマジネーションビジュアライゼーション
2022年~
チベット密教
波動統合
奇跡のスイッチ
4つのステップ

上記の他、各種瞑想、ケイシー療法、マインドマップ、速読、ファスティング、各種エネルギーワーク、高野登百年塾、信州おもてなし未来塾等々、他多数。
毎年さまざまな勉強に余念がなく、現在も毎月様々なセミナーに出席。

これで終わりという完成はないと思います。
一生学び、向上し続けたいと思い、今後も、いろいろなことを学び、体験し、感じ、悩み、そうして、歩いている最中です。

短いプロフィール

リーディングのような不可思議なことを仕事にしているせいか、生い立ちも不思議に満ちているのかと思われることがありますが、そんなことはありません。

確かに、子供の頃は、相手の人の言っていることと心の中が違うことがわかることがたびたびありました。しかし、それは決して私の人生を楽にしてくれるものではなく、それどころか、なぜ人は心と違うことを平気で言えるのか、またそれに人はいともたやすく騙されてしまうのかと、人間不信になり、人と接することが怖くなりました。人間関係がうまくやっていけない変わり者の私は、コミュニケーション能力がないのだと、長いこと自分を卑下していました。

この仕事についてからは、こんなのはなければどんなに楽だったかと思っていた能力が、この仕事においては実は優れた能力であり、変わっているのは私なればこその証と自信を持てるようになりました。転職前の仕事場でいじめに会い、つらい時期を過ごしましたが、転職を決意、この世界に入りました。辛く長い道のりでしたが、そうした苦しい期間が今の私を作り上げてくれたと思います。

人はいろいろ。行動も、話も、考え方も。それでいいし、それが楽しいと今では、思えます。

全てが別々のようでいて、実は同じ私。私は彼であり、彼女であり、流れる川であり、そよぐ風であり、見上げる大空であり、果てない宇宙であり、まだ知らないこの世の存在のどんな小さな素粒子に至るものの全て。全てに私はいて、私は全てである。そう思えるようになってからは、とても楽になりました。
話すことと心の中が違っていることなど何も気にならなくなりました。そしてだんだんと、そういうことに反応しなくなりました。反応している自分に気づくと、それが自分を観察するいいきっかけになります。こういうことで、こんな風に思うんだね、私・・と、見直すチャンスになります。

今でも、やってしまったことでしょげたり、どうして気づかなかったかと反省したりの連続ですが、違っているのは、それが楽しい、それでいいと思えることでしょう。問題なし、OK!です。もちろん、だから放っておくということではなく、そこから、探っていきますが、自分にNO!!とは思わなくなりました。ダメな私も、ダメじゃん!と責める私もどちらもOKなのです。全てがO K!だと今は思います。

リーディングはどうして出来るようになったの?

それと、皆様からよく聞かれるのが、「リーディングはどうしてできるようになったの?」というご質問です。

レイキヒーリングについてはスクールで習いましたが、リーディングは、レイキをしているうちに、自然とできるようになりました。仕事として全く違和感なく、むしろとても楽しく自然にできるのは、過去世で何回も同じようなことをしてきたからだろうと思います。これが今世やりたいと生れてきたことなのでしょう。何のとりえもない、つまらない、生きている価値のない人間と思っていた私にも誇れるところがあったのだと今はうれしく思います。
私が生まれてきた目標は生まれるときに皆がそれぞれに抱いてきた課題を成し遂げて、笑顔で還れるサポートをすることです。私はそのためのサポーターだと思っています。皆でよくやったよね!と満面の笑顔で還りたいと願っています。

しかしこのような仕事をしているからと言って特別な人間ではありません。私は、これもまたすべての人が持つ能力だと考えます。お料理が得意な人がお料理の先生になったり、走るのが得意な人がマラソンの選手になったり、そういうことと同じです。

目に見えない世界のことを扱うので、摩訶不思議な超能力のように思えますが、レイキもリーディングも、もともと誰にでもある能力です。とは言え、それが仕事としてできるかどうかには、正直、差があると思います。だれでも、走ることはできるけれど、プロのマラソンの選手になるのは一部。そんな風に説明しています。

私の人生もまた、皆さんと変わりがありません。一人ひとりが大事な人生を生きているように、私もまたその中の一人です。

しかし誰でも直感力を磨き、ステキなシンクロニシティをいくつも起こすことは普通にできます。その感性を磨くための方法として私はレイキヒーリングやスピリットリーディング・ライフコーチングでサポートしています。
レイキヒーリングで自己ヒーリングをすることで、つけてしまっているマイナスエネルギーを浄化し、上手に自分のエネルギーに廻せるようになり、透視リーディングやライフコーチングなどでいかに不要なビリーフを持っていけるかに気づき、本当の自分に還っていくことができるのです。

ただ時折、もっと詳しく知りたいとおっしゃっていただくことがあるので、もっと詳しいことも書いておきます。ご興味のある方は、ちょっと長くなりますがお読みくださいね。

長いプロフィール

自殺ばかり考えていた子供のころ/手術、母の死

私は、小さいころから自分が大嫌い!!でした。

 両親は経営していた店舗を拡張していく時期で忙しく、話をする時間もない。顔を合わせても、ダメ出しばかり、褒められた記憶は1つもありません。生きている価値のない人間、なぜ生まれてきてしまったのだろうと、小学生のころからずっと思っていました。学校時代の楽しみは、帰り道に、毎日日課のようにどんな方法で自殺をするかを考えること。何の面白みもなく、鬱々として暗い日々でした。 

 中学2年の時に、副鼻腔炎の手術を受けました。そこは当時日本で唯一、眉の付け根のあたりに溜ってる膿を、鼻の横を切開して除去する手術をするところでした。顔を切開すると聞いて不安になり、病院の受付にいた人に、傷痕にならないのかと尋ねた記憶があります。病院を決めた親には尋ねることができませんでした。親とは話をすることがありませんでしたから、どのように話をすればいいのかわからなかったのです。それに、私のためを思って決めてくれたのだと自分に言い聞かせていました。

 しかし、結局それは、大きな赤い傷跡になり、長いこと私を苦しめることになりました。顔の真ん中に縦に2本大きな赤い傷跡。人は必ず私の顔を興味深そうに見ます。時がたち、赤みは消えていきました。が、傷痕ははっきりしています。「見ろよ!バケモンがいる!!」と叫ばれたこともあります。25歳の時に医科大学病院で、傷痕を細くする手術を受けた時、目の前の世界はこんなに広かったのかと驚きました。きっと、いつもうつむいて、周りを見ないようにしていたのでしょう。

 今では、この体験は、顔の美醜にこだわる価値観を排除するために、この世にやって来る前に、自分に課したことだったのだろうと思っています。もしかしたら、前世の私は、よほどハンサムか美人で、それを鼻にかけていたのかもしれません。今世はまずその鼻をへし折っておこうと、若いうちにこのような体験をするように、自分で設定してきたのかと思っています。よほど、徹底的にその価値観を手放したいと思っていたのでしょう。だから、忘れることがないようにと、一生消えない傷痕にしたのかと、苦笑いしながら考えています。

 中学生の手術の時には、もう1つ大きな体験をしました。母が、私の目の前で亡くなったのです。42歳、脳溢血でした。病室の蒲団の上で、急に苦しむ母を前に何もできず、父を呼ぶことしかできませんでした。店の経営と家事と私の面倒までみて、疲れ切っていたのでしょう。若い死でした。

 あの時、命というのはあっけないものだということを目の前で見ました。そして、生きていることは常に死に向かっている。いつかやって来るかもしれないのが死ではなく、今起こるかもしれないのが死なのだと胸に刻み込まれました。

その時の経験から「死」というものが怖くなくなりました。そして、死んだ時に満足していられるかどうかが今の私の人生の判断基準になっています。その立ち位置からリーディングするのでクライアント様に楽しいだけの甘いことばかりお伝えすることはありません。かなり厳しいことでも目の前のクライアント様の為になることをお伝えしています。その方の魂が変革を願うからです。そしてそれが母の死に出会ったことによって得た「覚悟」です。

今につながる不思議な声

 それと、中学生時代には、もう1つ印象的なことがありました。

 ある日突然、「仕事は40歳過ぎに決まる。」という声が聞こえたのです。まるで、外から誰かに言われているように聞こえるけれど、そばには誰もいません。内側から響いていたのです。不思議な感覚。

 当時の私は、仕事というのは、学校を卒業したら定年まで同じ会社に勤め続けるものだと考えていましたので、自分がなんでこんな変なこと思っちゃったんだろうと不思議に思いました。しかし、その声は、全部で3回聞こえ、そこで消えました。3回も聞こえたので、さすがにその後もずっと覚えていて、時々思い出しては、あれは何だったのだろうと考えていました。後年、本当に40歳を過ぎて転職し、今の職業に就いた時に、あの時言われていたのはこのことだったのかと、ようやく腑に落ちたものです。

 現在の仕事をしていて、時々、小学生や中・高校生の方など、まだまだ若い方々が来られてリーディングさせていただくと、こうして、若い時に将来に続くアドバイスをもらえるのはなんと幸せなことかと、つくづく感じ入るものがあります。連れてこられたお母様方が、この子がうらやましいというのも、深くうなずけることです

私を変えた「私を認める!」

 10~20代と相変わらず、鬱々としてどんより暗い毎日。自分を責め、周りを責めてばかりいました。それでも、ふと考えたのは、もし本当に「輪廻転生」ということがあるのなら、今の私が一生懸命やっておかなければ、来世の人は苦労するだろう、そして、なんで前世の人は、手を抜いたのかと恨めしく思うことだろう。それなら、今、来世の私のために、やれることだけはやっておこう、ということでした。それからは、後ろ向きに考えなくなりました

 それまで宗教には興味なく過ごしていたので、なぜこんな考えが出てきたのか不思議ではありましたが、母の死をきっかけに考え出した、死ぬときの自分にOKを出せるか?という想いと、来世の自分に恥ずかしくないように、との想いは、少し私を楽にしてくれて、その後それが私の支えになりました。

 とは言え、日々がガラッと変わるわけでもありません。いくつかの精神科やカウンセラーにかかりましたが、何の効果もなく、いったいどうしたら楽しく生きられるのかと悶々と悩んでいた30歳のある日、あるセミナーへの誘いを受け、思い切って親にお金を借りて、受講しました。これが私の転機になりました。そのセミナーの最後に、大勢の前で宣言するという課題を与えられ、宣言文を考えていた時、『私は私を認めます!!』という言葉が浮かんだのです。それを大勢の前で大声で宣言したとき、それまでの重い気持ちが軽くなるのを感じ、そうして、その時からようやく私は私を生き始めました。

思いがけない結婚と、職場でのイジメの日々

 その後、少しずつ安定した日々を過ごせるようになっていた30代半ばの夏。私は急に、結婚しよう!と思い立ちました。中学2年から父が再婚する高校2年までの3年間の主婦業の思い出から、主婦への憧れは皆無。一生結婚しなくていい・・のはずが、自分でも不思議なくらいに、急に結婚を意識しだし、翌年春、主人を紹介され、秋には結婚。出会った時から、安心して何でも言える人と感じ、きっとこの人とは過去世では、親だったことや、子供だったこともあるのではないか、それくらいリラックスできるなどと気楽に思っていました。

 しかしそんな、楽しい日々もつかの間、今度は職場である女性から目の敵にされ、四面楚歌のイジメにあいました。経済的に辞められず、数年を悲痛な思いで働き続けました。よくビルの屋上に行っては、飛び降りてしまおうかと下を眺め、気持ちを落ち着かせては席に戻ったものです。その当時を知る友人からは、水野さん、あの頃おかしかったよねと、仕事を辞めてから言われました。

 しかし、耐えて働き続け、負けまいと努力する中で、私は自分でも思ってもいなかった能力を見出すことができました。地道に続ける根性と、胎のくくり具合を身に着けたのも、この時があったからこそ。それまでの私はいかに怠惰で怠慢な働き方をしていたか、大いに反省もしました。辞職するころには、いじめてくれた人たちに、心の中で感謝をしていたくらいです。

 この期間に、得た多くのことが、今の私を支え続けてくれています。独立して、仕事をし続けられるのも、この時の根性や、私でもできるといった自信があったればこそ。モチベーションを高く保ち続けていられるのも、この日々に考え続けた、「生きている意味」によるものと思います。

私がここにいる目的

 さすがにこのままではおかしくなると転職を真剣に考え始めたのですが、どんな職に就きたいかが具体的にわからない。多分私の付きたい職業はハローワークにはない、自分が決めなければやってこないだろうと考えた私は、さまざまなことを試みました。その中の1つに自分探しの「ソース」というプログラムがありました。テキストをこなしていくうちに、最後に、『人がもともと持っている光を輝かせるサポートがしたい』という言葉が浮かびました。しかし、それだけでは何も動きません。それをさらに突き詰めて、「心と身体のことでサポートになる仕事」と考えついた途端、まるで待っていたかのように、セラピストへと勧誘され、転職を決意。上司全員から強く引き留めていただき、「水野さんがここで1番働いている」と言っていただけたのが今でも誇りです。

 2000年、家族の大反対を押し切って、当時厚生省の管轄であった外郭団体職を辞職。転職後3年間は独立のための勉強。収入は5分の1に減っているのに、勉強のためにしばしば東京に。退職金はたちまち目減りし、保険を解約、家を留守にすることもたびたび。とうとう離婚の危機に。そんな時期を経て、独立しました。

 独立当時はクライアントさんの一人も来ない時期を何ケ月も過ごしましたが、お蔭さまで仕事は口コミで広がっています。面白いことに、その後、転職前の職場は、民主党政権下で行われた仕分けによって廃止され、今はありません。退職を反対し続けていた家族は、今では一転、退職しておいてよかったと言っています。人生、本当に何が起こるか分からないものです。

現在のこと、これからのこと

 ところで、独立時、私は、何年か後には仕事で何か大きな出来事がおこり、乗り越えなければならなくなるであろうと予測を立てていました。が、それは思いかけず、自分のことではなく両親の多額の借金の判明という形でやってきました。

 両親は認知症で判断能力はなく、何を聞いても話が通じません。きょうだいが、他県から何度も駆けつけて一緒に行動してくれるとは言え、両親のそばにいる私が、一番動かざるを得ません。以来、弁護士、税務署、市役所、借金先等と相談、交渉の連続。父名義のビルは手放し、何日もかけてきょうだいで引っ越しの荷造り。さまざまなところからの借金や、滞っていた支払を、きょうだいで分けて払いましたが、最後に残った分を、最終的に主に私が肩代わりすることにしました。
大事なビルを人に渡すまいと子供のように暴れまくっていた父も、残った自宅で安らかに大往生。母も探し続けてようやく見つかった施設に入居でき、安らかな顔で亡くなりました。

 齢を重ねるごとに、新たなチャレンジがやって来ます。ドキドキ悩んだり、ワクワク期待したり・・、前半生のまるで土の中に眠ったままの種のようだった人生が、後半に入ってから、発芽して伸びていくかのようです。

 ヴェーダンタというインドの古代から伝わる智慧の勉強のお蔭で、この世界も、起こっていることも、『人生の全てのことは自分自身で起こしているのだ』と、それまでの頭の理解ではなく、胎で理解して生きられるようにもなってきました。若い頃、もし両親が私をもっと愛しんで育ててくれたなら、どんなによい人生を歩めたのかと恨んで泣いたことも、今ではまるで夢のように消え去り、思い出すこともほとんどありません。

 あんなに長い間苦しんださまざまなことが、あれでよかったのだと、今では素直に受け入れられることが、とても不思議です。

 こんなことを少しお話しすると、ドラマティックだねと言ってくださる方もいます。が、私はどうも自分のことには無頓着なようで、これくらいのことは、体験している人は大勢いると思ってしまいます。人はそれぞれに、ドラマを生きています。その人しか知らない、味わえない人生を一生懸命生きています。私もその一人です。

世間的にはなにもせずにいるべき老人なのかもしれませんが、そんなことはこれっぽっちも思っていません。まだまだこれから!と思っているくらい。先を考えると楽しくなります。そこまでには、まだまだやらなければならないこと、体験しなければならないことがあるでしょう。長い道のり、精進と工夫の日々です。

 振り返った時に後悔のないような人生を生き、そして、いつかの、あるよく晴れた日に、大きな青空を見上げながら、よく生きたなぁと思いながら静かに亡くなりたいと、今は願っています。

人生は生きるに値します。
一緒にあなた自信を取り戻して、ワクワクと充実した人生を生き切りましょう。
私はその為にいます。